思考のタダ乗り

読書は「思考のタダ乗り」らしい。

 

奥野宜之さんが著書(読書は1冊のノートにまとめなさい[完全版])で述べた言葉。

ショーペンハウエル『読書について』の内容を取り上げた上で(ショーペンハウエルは読書を「思考の怠慢」と呼んだ)、「本によって、ある程度のところまで連れて行ってもらったら、そこから先へ、少しでも自分の頭で考えることが大事だと思います。」と説明している。

 

俺はこの「タダ乗り」に無自覚になりがちである。

母親との会話で、俺の返答が「それ本にも書いてあった」「でもTwitterでは違う言及が……」「○○はこう言ってる、それ以降は分かんない」と、全て「タダ乗り」になっていたことに、自分で全く気がつかなかった時がある。

 

本の作家で、きっと「タダ乗り」だけをさせて満足するような人はいないだろう。世の中には広い世界があることを知らしめた上で、読者にはその世界を渡っていけるようになってほしいと誰もが願うはずだ。

それにも関わらず、補助輪付き自転車、スーパーの試食、ゲームの無料お試し版だけで満足して帰る輩がここにいる。帰るどころか、キラッキラの目で得意げに、「僕はこんなに貴重な体験をしたんだベラベラベラベラ」と人前で語るような人間である。作家からしたら、「いやいやそんな程度じゃなくてここからが本番なんだけど」と白けてしまうだろう。

 

誠実に正しく生きようとするあまり、間違えることを過剰に恐れてしまう。そのために他人が到達した正しさに縋り、自分で考えることを放棄してしまっているのだろう。

無責任な男に思われるだろうが、半分違う。無責任だから思考放棄するのではなく、思考放棄した結果、自らの間違いにどう責任を取るべきか分からなくなってしまうのだ。だって、それは他人の考えを鵜呑みにしたものだから。

自分の間違いを素直に受け止める力を持っていれば、大きな間違いを犯した時でも、反省し、より高精度の「正しさ」へと辿り着くことが出来るはずだ。

時々、本を全く読まない人に対して無性に憧れてしまう時がある。そういった人の中には、他者の意見を頼りにせず自分の頭で導いた「正しさ」に従い歩んでいるかのように見える人がいるからだ。

もちろん、読書量ゼロは全く誇れないことだとは思う。その上で、本の虫というより寄生虫のように本に縋る俺にとっては、「本がなくても俺生きていけっから」という屈強な姿勢が羨ましく感じてしまうのだろうな。

 

ある意味、これもマッチョイズム的な思考なのだろうか。(1021字)