「逃げ恥」をイッキ見した

発端はこの記事を書いたこと。
furukawa-maeda.hatenablog.com

 

”逃げ恥婚”と世間では騒がれていた新垣結衣星野源の結婚発表だったが、個人的には逃げ恥は未視聴。というわけで、一カ月も前のことだが、アマプラで視聴開始。

せっかくだから一話だけでも……、と軽い気持ちで手を出したのがいけなかった。

第一話でグッと惹きつけられて、翌日に第二話を観始めてから止まらなくなってしまい、気がつけば朝5時。

 

 

もしろかった。

とにかく、みくりさん可愛い!! 平匡さん可愛い!!

ガッキー可愛い!! 星野源許せねえ!!!!!!

と、自分でも信じられないほどのミーハー心があふれ出した。

前回の記事で「新垣結衣は特段好きという訳ではない」とかっこつけていたけれど、好きだったんだなぁ。寂しいなぁ。

 

真面目な話をすると、ここまで結婚に対して真摯に向き合い、かつ肯定的に打ち出す作品はなかなか見られないなと感心してしまった。

演劇の作品において、結婚に対して悲観的な作品が何だか多い気がする。俺は2年前に観たレッドトーチシアター『三人姉妹』*1がきっかけで、結婚に対しての望みを失ってしまった。もちろんそこには家父長制への批判があるからで、それは逃げ恥においても通底するものがある。

 

それだけではなく、世間では同性婚少子高齢化、選択的夫婦別姓制度、産休・育休取得の難しさといった、ありとあらゆる課題が浮き彫りになり、結婚に対して願望はありつつも、現実的な選択肢としては消極的な意見を持つ人が多くなっているのではないかと考えられる。

そういった風潮の中で、赤の他人同士が生活を共にすることの難しさや、それでも対話を通して壁を乗り越えていく大切さを描いていくことで、結婚の本来の魅力・希望といったものを再び世間に伝えることに成功しているなと感じた。

よって、これまでのようなラブコメを求める視聴者にとっては、重苦しく感じる展開もあったのではないだろうか。平匡からプロポーズを受ける場面は、従来の恋愛ドラマであればみくりも素直に喜び、受け入れていたかもしれない。しかし、みくりはあの場面で自分の胸の内に抱えたモヤモヤを否定せず、平匡に「好きの搾取」と言い放った。あの展開を意外に思った視聴者も少なくないと思われるが、これまでの対話やすれ違い、相手を気遣いながら自らの心も犠牲にしない二人の誠実なやりとりを見届けてきた視聴者にとっては、「これぞ正に森山みくりだ」とガッツポーズを決めた瞬間に違いない。

 

主役二人の物語はもちろん、百合と風見のサブプロットも非常に良かった。アラフィフ独身キャリアウーマンが年下男性との恋に揺れる過程を、石田ゆり子が好演していた。

特に最終話、百合をオバサンと揶揄する五十嵐に対し、百合が言い放った「いまあなたが価値がないと切り捨てたものは、この先あなたが向かっていく未来でもあるのよ」「私たちのまわりにはね、たくさんの呪いがあるの。(中略)自分に呪いをかけないで。そんな恐ろしい呪いからは、さっさと逃げてしまいなさい」というセリフにはじんとくるものがあった。女性の管理職という、未だ男性中心の構造を捨てきれない日本企業の中では不利な立場を強いられる状況にありながらも、順調にキャリアを積み重ねてきた百合。そんな彼女にとっては、たとえ独身の寂しさとコンプレックスを抱えていたとしても、そういうことがさらりと言えてしまうのである。

「呪い」はみくりと平匡の二人にも同じように取り巻くものだ。「小賢しい女」というレッテルに、開き直りながらも長年苦しめられてきたみくり。しかし平匡は、他愛もないことのように、「僕はみくりさんを下に見たことはないし、小賢しいなんて思ったこと、一度もありません」と、あっさりと彼女の「呪い」を解いてしまう。思わず平匡を抱きしめるみくりの姿を見て、このドラマは「呪い」を解く物語なのだなと確信した。

 

女性の主体的な発信、高齢童貞、独身女性、同性愛……。彼・彼女らだけではない、私たち日本人の全てにかけられた呪いは、お互いの対等な関係性を保ち、真摯に向き合っていくための対話によって解くことが出来る。そんな救いを感じる作品だったと思う。(1691字)

 

*1:ティモフェイ・クリャービン演出、東京芸術劇場、2019年10月18日~20日