ちょっとはいしゃく『売春捜査官~熱海殺人事件~』@高田馬場ラビネスト

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昨日(6月27日)の18時回。Bキャスト。

高校演劇では毎年のように上演されているため、『熱海殺人事件』を観るのはもう何度目かも分からない。しかしながら、『売春捜査官』は今回で2回目、それも全編通してしっかり観るのは初めてのことだった。

あらすじはほとんど他の『熱海殺人事件』のバージョンと変わらないが、決定的に違うのは、木村伝兵衛部長刑事が女性であるという点だ。それに付随して、新人刑事・熊田留吉は伝兵衛の元恋人、婦人警官・ハナ子(水野朋子)はゲイセクシュアルの戸田万平に代わるなどの設定の変更がなされている。またそれ以外にも、山口アイ子が売春婦になる経緯の詳細や、アイ子の所属する売春宿の元締めを行う在日朝鮮人・李大全のエピソードなどが挿入された。

 

先日Twitterでも述べたが、正直に告白すると、これまで『熱海殺人事件』のことを、至極雑に言えば「純朴な田舎者が都会で腐っていく話」だと思っていた。いや、恐らくはそれで十分だとは思うが、生粋のすてーぼーいである俺にとってはその見せ方にあまりピンと来ない場面もあったにはあった。何でこいつ相撲のことずーっと言ってんだろうな、とか、コーヒーの値段に「たけぇー」ってびっくりするくらい許してやれよ、とか。

しかし今回ちゃんと『売春捜査官』を通して観られたことで、これが「男社会の男性・女性それぞれの苦悩を描いた話」であることがやっとはっきりと理解できたと思う。

 

いつもの「熱海」ならば、伝兵衛は婦人警官といちゃこらしているし、取り調べ後は結婚しに田舎へ帰る婦人警官を送り出す場面が印象的である。それに、事件の内容も純朴な若い男女の悲劇であり、大山を一流の殺人犯に仕立て上げようと奮闘する刑事たちが、「ブスに人権はない」だとか、酒ではなく紅茶を飲んだ大山に格好がつかないことを叱責するだとか、いい大人が酷い言葉で、自らの流儀と美学を賭けてあーだこーだと押し問答をする。思い返してみれば、確かに熱海は男女の話であり、性の話だった。

『売春捜査官』においては、木村伝兵衛が女性になろうとその変態性・歪んだ愛情は変わらず健在で、その上、バージンだの生理が始まっただのと平気で開けっぴろげに口にする。これはただ単に「木村伝兵衛が女性になった」というだけの面白みばかりに注目すべきではなくて、日本社会、特に初演当時(1996年)においてはなお、このような主体的なセックスアピールをする女の姿は、「強靭な女性」像として日本人の目に映ったのではないだろうか。

 

観劇しながらふと、藤子・F・不二雄の短編『女には売るものがある』という作品を思い出した。女性優位の時代において、ある女が男に「女性に従属奉仕させる権利」を売ったため、「売権防止法違反」の罪で送検され、他の女性たちに「苦闘の歴史を逆行する全女性の敵」とバッシングを受ける話である。

 

 

Twitterを見る限り、このタイトル通り、或いはそれに近い女性観を持つ男性、はたまた女性は案外多いのではないかと感じてしまう。「化粧は男性に媚を売るためのもの」とか、「モテない女がフェミニズムを掲げて女を叩いている」とか、そういった無根拠な言い草は後を絶たない。

しかしまあ、「女には売るものがある」のは即ち「買う者が存在する」ことを意味するのであり、それはつまり女性ばかりの問題ではない。劇中でもアイ子は「苔のような女」と蔑まれ、プライドをずたずたにされたが、そもそもアイ子に性を売らせたのは誰かと言えば、売春宿に引き入れた李大全であり、それを頼んだ五島の村長ら男性たちである。

そして大山やアイ子自身もその構造には無自覚なため、例え売春宿を経営しようと老人の為に車椅子を贈るような五島想いの李に対し、大山は「五島の女に無理やり売春ばさせた」と自殺に追い込むほど責め立てたり、アイ子を引き留めるための武器を持ち合わせていないために、島一番の大関としての権力や金に縋らざるを得ない。アイ子は五島時代から持っていた虚言壁や見栄を張る癖を更にエスカレートさせ、自分に千円を出してきた大山に「百姓」「田舎もん」と反発し、いつか売春婦のトップになると吐き捨てる。

李はアイ子に「いくらコケと呼ばれようと、お前の心に故郷があれば、何も卑下することはない」と言葉を贈ったが、アイ子も大山もそれに耳を貸せるほどの余裕を持たない。それどころか大山は、李が在日朝鮮人であることを理由に、アイ子を売春婦にした怨みを差別的な行為に変えて晴らそうとする。

「売る女」と「買う男」という構造は、売り買いするモノを持たざる若者たち二人を苦しめ、挙句いとも簡単に他人を蹴落とせるような人格に陥れてしまうのである。差別・格差の構造の被害者は、それらに無自覚のまま、被害者同士でさらに白熱させてしまうのだ。

大山の描写は、これまでの「熱海」では特に共感しやすいキャラクターとしての要素が強かったと思うが、今回は特に大山の「罪」に対してもしっかりと描いていたために、観客が大山に対して「同情するが許すことは出来ない」という意識を与えることが出来た。特に大山役の俳優の演技が後半部になるにつれてアクセルがかかってきて、非常に良かった。

 

これまでの「熱海」よりも更に深く差別の実態へと迫った『売春捜査官』は、「熱海」よりも「熱海」らしい、より本質的な「熱海」として完成された作品なのではないかと感じた。それが伝わっただけでも、今回は良い公演だったと思う。

 

台詞に対してはかなり戯曲に忠実に見えたが、その忠実性の高さゆえに、ちょくちょく余計な改変がされていることに気になって集中が削がれてしまうことが多々あった。

なぜ木村伝兵衛からチャイコフスキーパピヨンのテーマを奪ったのか。あと多分部長ならiPhoneの着信音をデフォルトのままにしないだろ。そういった小さな要素の集まりが、部長刑事のこだわりの高さ、美意識の高さを薄めてしまっていたと思う。

こだわりで思い出したが、木村伝兵衛役の俳優はかなり真面目なタイプに見えて、それが後半部では特に部長刑事の魅力を引き立たせていたと思う。しかしながら、決して「こだわる部長刑事」としての変態さ、強さには繋がらなかったため、前半部では特に部長や刑事らを面白がることは出来なかったなぁと感じた。

別に改変すること自体にいちゃもんをつけるつもりはないが、改変する意味はもっと考慮した方がいいなと思った。

 

あと気になったのが、ゲイセクシュアルである万平の描写である。これは正解を打ち出すこと自体至難の業であることは認める。とはいえ、万平を「オネエ」とか「オカマ」の方向性で笑わせるのはもう少し防ぎようがあったのではないかと思った。まぁ戯曲通りに進めればそうなってしまうだろうし、確信犯的にじゃんじゃん「オネエギャグ」を入れ込んだ上で、終盤で観客に共犯意識を植え込むとか、とにかくまあ、「オネエとして笑わせ蔑む意図はない」ということがもう少し分かりやすく提示されていればいいなと思った。

 

とにかく語り草が多い戯曲であるがゆえに、役者やスタッフらにも本気の熱が見えた。それだけに惜しいところも多少目立ったが、コロナ禍でもこうやって学生が集い、演劇に取り組むことが出来るだけでも喜ばしいことだな、などと考える公演だった。

 

 

余談だが、前日には中屋敷法仁演出『改竄・熱海殺人事件』を観に行く予定だったものの、キャストの一人に濃厚接触者が出てしまったことで全公演中止となってしまった。中屋敷の奇妙キテレツな演出と比較して楽しむつもりだったが、とても残念だ。(3063字)