「好き」を下品に扱う人間(2)

前回(↓)の続き。

furukawa-maeda.hatenablog.com

続きと書いたが、もう全然書けそうにない。さっぱりだ。どうしてこうなった。

分からないことだらけだ。なんだ、「推し活」って。

文中では「推し変」とか「推しが決まる」みたいな言葉にモヤモヤする、って書いたけれど、昨日あのような文章を書き始めたのは、そのような「自らをオタクとして成立させるために推しを選ぶ」という考え方に対して、なんだかとてもあべこべで不思議な印象を受けたからだ。

どういうことなんだろう。好きだから追っかけているのではないのか。追っかけるために好きになる対象を選ぶってどういうことだ。しかも「好き」の対象を途中で変えるって何様だ。なんて自己中心的なんだ。「尊い」とか言いながら、まるでペットを見るような口じゃないか。

 

そんな疑問ばかりをもっていたが、これを書く上で色々調べているうちに腑に落ちた。

 

要するに、推しはオタクにとってのアイデンティティーなのだ。

しかも、推しはそれをアイデンティティーとするにはあまりにも心許ないもので、オタクとはそんな推しを頼りに生きる儚い存在なのだ。

 

広く知られている通り、アイドルの変遷のスパンはあまりにも短い。卒業、脱退、解散、移籍、テコ入れ、メジャーデビュー、その他様々な理由で、グループの形態は移り変わっていく。

それに、アイドルだって人間だ。恋愛もするし、結婚も出産もする。いつも歌やダンスばかりではない。アイドルとは程遠い、別の夢を追いかける人もいる。場合によっては、この世からいなくなることだってある。

オタクはなんだかんだで、アイドルの人間性そのものを愛しているのではなく、アイドル、あるいは所属グループといったフィルターを通して見ていたり、歌やパフォーマンス、顔といった一部分のみを愛している。数々の「変化」の中でそれらを失えば「好き」の対象だって見失う。

そうなると、オタクはオタクという自分自身そのものも見失うのだ。

何のためにこれまで辛い出来事を乗り越えてきたのだろうか。何を求めて推してきたのだろうか。ここまで費やしてきたのになぜ見返りもなく消えていくのか。

オタクはそういった想いを反芻し、受け止め、やがて「これからはどのように生きるべきか」を考え始める。

 

1年も5年も10年も同じ「推し」ばかりを追い続けることがそもそも稀有なことなのだ。一方的な変化に耐えられる人間ばかりではないのだ。生活の一部と化してしまった「推し活」において、その中心的存在を見失ってしまえば、もう、おしまい。

だからこそ、「推し」を失うたびに、また新たな「推し」を見定めて、けじめをつけて生きていく。

 

いや、自分でもかなり美化して書いている自覚はある。その上で続ける。

思えば人は、恋愛したいがために恋人を探す生き物なのだ。妻に先立たれた喪失感を埋めるために結婚する生き物なのだ。亡くなった愛犬を思い出して「また犬を飼おう」と思い立つ生き物なのだ。

人は絶えず変化する現実との折り合いをつけながら、「好き」という想いによってその中に人生の拠り所を見つけていかなければならない。

 

オタクがオタクであるために、推し続けなきゃならない。ということだ。

 


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冗談はさておき、「好き」という想いに対して誠実に生きる人々のことは祝福していきたいと感じる。

とんだ思い違いをしていた。てっきり「推し変」などの言葉を使う人は、「好き」という想いに不誠実な人々なのではないかと考えていたが、そういった人ばかりではないことが想像できた。

 

次回こそ、そのような「好き」を下品に扱う人間について書く。(1448字)